丸原城

-まるばらじょう-

 

舞歌「丸原に 桜は幾世を 生くるとも 永きを得るか 福やあらねば」

 

 この神楽は、浜田市旭町丸原にあった「丸原城(別名:雲井城)」の逸話を基にしたものです。

 永禄4年、吉川元春を大将とする毛利軍が、福屋氏討伐のため、5千の兵を引き連れて進軍してきました。鼠原を越えて、彼らが最初に攻撃目標に定めたのが丸原城でした。

 当時、丸原城の城主は大浅兵部時宗でしたが、家古屋城の防衛にあたることになった時宗に代わって、弟の大浅惣右衛門が丸原城を守ることになりました。

 丸原城の攻略を命じられた毛利軍の難波伝兵衛龍久・佐々木善三郎らは、息をも継がずに丸原城を攻め立てます。

 毛利軍に第二の城門を突破された惣右衛門は震い恐れ、一戦もせずに家臣と共に城を捨てて逃げてしまいます。

 丸原城の武将、磯野亀丸は、大太刀を振るってただ一騎敵中に切り込み、当たるを幸いに鎧武者3人を切り殺します。

 すると、紺糸おどしの具足をつけ十文字槍を持った勇ましい武将が向かってきました。亀丸がその名を問うと、その武将は、難波龍久と名乗りました。

 かくして、磯野亀丸と難波龍久は、戦場で相まみえることとなります—————

 

 丸原城の城下には、樹齢千年を超える桜の大樹がありましたが、丸原城落城後まもなく、枯れてしまったと伝えられています。